私が、音をなくしたのは7歳になったばかりの夏だった。

交通事故だった。

大好きな幼馴染の京一をかばって、

猛スピードで駈けるトラックに轢かれたのだ。

奇跡的に。

本当に奇跡的に、命は助かったものの、私は聴力を失った。

あれから10年、私は音のない世界に棲んでいる。



―君の声がこえる―



聴力を失って困ることは唯一つ。

車の音が聞こえないことだ。

後ろから来る車に気付くことができない。

その所為で怖い思いをしたことが何度かある。

それくらいだ。

他には特に困ったことはない。

話すのだって筆談という手があるし、

世の中には手話という便利なものもある。

テレビのニュースの代わりには新聞、

ドラマの代わりには文庫本がある。

学業にも大して支障が無いからといって、

高校も普通の学校へと進学をした。

さすがに授業が講義中心になる大学進学への道はあきらめたが。

大して勉強は好きではない。

数学やなんかはどうあがいたって平均点を取ることは無いし。

将来に不安は無いかと聞かれれば、無いわけではない。

だが、それは他の人間もみな同じだ。

耳が聞こえないことは私の個性の一つでしかないのだ。

他の人の、髪が長いとか、瞳がでかいとか、その程度の個性。

聞こえなければ、言葉に惑わされることもない。

音のないこの世界を、私は愛おしく思ってしまっている。



両親は仕事人間で、年に一度家に帰ってこればいいほうだ。

帰ってきても娘に関心がないのだろうか。

言葉をろくに交わすことも無く行ってしまう。

それでも私は彼らのことを嫌っていないし、彼らの人生は彼らのもので、

私が狂わせていいものだとは思っていない。

元気に過ごしているのならばそれでいい。

これが本音だ。

それに誰もいないこの家の居心地は悪くはない。

近所の人も事情を知っていてくれていて親切に接してくれる。



土曜で学校が休みの中、自室で文庫本を読んでいると、

ふと、風が通る気配がして振り向いた。

不法侵入者を迎えるためにいつも部屋の窓の鍵は開けっ放しにしている。

其処には幼馴染の京一が立っていた。

彼は自分の部屋の窓からこの部屋へと入ってくる。

2階なので少し心配だが、

自分は運動神経がいいんだと言って私の話を聞き入れない。


『寒く、ないか?』

彼が手話で聞いてくる。

『そうでもない。今日は仕事終わるの速かったんだな。』

私も手話で返す。

耳が聞こえないとしゃべることもできなくなる。

ヘレン・ケラーはそれでもしゃべったが、

私にはサリバン先生もいないし、

リハビリをしてまで不確かな言葉をしゃべる気にはならないので、

手話と筆談で済ませてしまっている。

『今日はジャケットの撮りだけだったから。』

そういって彼は私が座っているテーブルの向かい側の椅子に手をかけた。

彼は所謂芸能人というもので、

高校生をしながら人気バンドのボーカルを勤めている。

私と同じ高校でまるで王子か何かのように崇められている。

仕事が無くって学校にいるときは、違うクラスにもかかわらず、

いつも私にくっついているので女生徒の視線はかなり痛いものだ。

私は本を閉じて彼のほうを見る。

『お茶、入れようか。』

私がそういうと、彼はうなづいた。


お茶を入れている間、彼はテレビを見ているようだった。

うちのテレビは彼のためにある。

いつも彼が来るとテレビに光がさす。

お茶を彼の前へ置く。

『ありがとう。』

そういって嬉しそうに笑う彼を見て私も向かいの椅子に座る。

すると彼はかばんからスケッチブックとペンを取り出して、

何か書き始める。

いつも、話が長くなったり、難しくなるときは筆談で話をするからだ。

『今週の日曜ライブがあるから惟も来いよ。』

スケッチブックにはそう書いてあった。

ライブ。

実を言うと私はあまり好きではない。

何度か行ったことはあるが、人込みがすごくて、

その上みんなテンションが高まっていて、周りが見えなくなっている。

人にぶつかろうがお構いなしだ。

京一のバンド仲間とも仲はいいし、京一達の歌っている姿を見るのは好きだが、

どうにもライブの席に着くまでと、

其処から京一に楽屋に会いに行くまでで人に酔ってしまう。

『わかった。』

私は彼からペンを奪い、スケッチブックにそう書いた。

そうすると彼はジーパンのポケットからチケットを取り出し、

私に手渡す。

私が嫌々ながらも行くのは、

楽屋に行ったときの彼が、すごく嬉しそうに笑うから。

ほれた弱みだ、今畜生。



京一はチケットを私に渡すと、席を立ち、

私に手を振り行ってしまった。

もちろん2階の窓からだ。



次の日、朝起きてみると京一に無理やり持たせられた携帯に、

一通のメールが来ていた。

京一のバンド仲間、修也からだ。

―今日の4時、この間行った霧里駅前の喫茶店で待ってる。

私の予定は無視ですか・・・・。

ため息をつきながら了解したと返事を打つ。

私は昼前に家を出て図書館へと行くことにした。

図書館もほぼ毎日通いつめた常連には、指定席なるものができてくる。

私は見渡しのいい窓際の指定席にすわり、

時間になるまで本を読みながら其処で過ごした。



約束の時間の30分前になると私は貸し出しの手続きを終え、

駅へと向かう。

図書館の司書さんは手話ができるので、

手続きはわざわざスケッチブックを出さずにすむから楽だ。

図書館のある駅から4つほど行ったところに待ち合わせの霧里駅がある。

乗客の少ない電車に乗り込むと私はボーっと外を見ていた。

電車が止まり、車内の電光掲示板を見ると、

霧里駅を示していたのであわてて電車から降りる。

駅を出てすぐのところに目的の喫茶店はあった。

その中に入り、ウェイトレスの案内でテーブル席へと座る。

時計を確認すると、約束の時間の5分前。

『アイスコーヒー1つ。』とスケッチブックに書いて、

水とお絞りを持ってきた女性に見せる。

メニューを指差せばいいと思うかもしれないが、

案外其れでは伝わりにくいのだ。



しばらくして、ウェイトレスの持ってきたアイスコーヒーを飲んでいたら、

肩を叩かれて後ろを振り返る。

其処にはサングラスをかけて、

赤みのないこげ茶の髪にニットの帽子をかぶった修也だった。

サングラスはあまり似合っていないが好きらしい。

彼は私の向かいの席に座り、注文をした後私のほうを見た。

私はスケッチブックとペンを彼の前に出す。

『いきなり呼び出してゴメン、用事とか、大丈夫だった?』

彼の癖のある字ですらすらと書かれる。

はっきり言って、こういう配慮は朝のメールのときにして欲しかった。

『で、呼び出した理由は?』

私は彼からペンを受け取り、スケッチブックに書き込む。

別に彼の書くのを見なくても、口の動きで話が分かるのだから、

そのまま話してくれればいいのだが、私の周りの人間はそれを嫌がる。

『京一のこと。惟さ、あいつと結婚の約束してるって本当?』

彼が書いたのを見たとたん私は笑い出してしまった。

久しぶりに声帯を揺らす。

笑いを無理やり抑えて、ペンを走らせる。

『ガキのころの話だよ。京一まだそんな事言ってるのか?』

笑いを必死にこらえて彼のほうを見る。

すると彼は真剣な目をこちらに向けていた。

目が合ったとたん、捕らえられたように目が離せなくなる。



『京一はさ、本気だと思う。たぶん耳のことで。』

修也がそう書いたのを見て私は目を見開く。

耳の所為で?

京一は責任を感じていたのか?

私はため息を付いてペンを修也から奪った。

『私から京一に伝えるよ。そんなつもりは毛頭ないって。

 京一が私に縛られる必要はない。

 京一が幸せなら、例え私のことを忘れてしまってもかまわないよ。』

私はチラッと修也を見る。

修也は私の文字を覗き込んだまま動かない。

私はスケッチブックに目を戻し、ペンを動かす。

『私は一人で生きていけるし。

 京一には逆に感謝しているんだよ。

 聞こえないって言う世界も、結構素敵なものなんだよ。

 それに、

 本当に大切なことは聴こえてくるんだ。』

そう、聴こえるんだ。

修也は私をじっと見ていた。

目を離さずに私からペンを取り、スケッチブックに走らせる。

私の顔をちらちらと見ながらゆっくりと。

『そっか。

 それだけ、聞きたかったんだ。

 じゃぁ俺、これから仕事だから行くな。』

スケッチブックを見て、私が頷くと、

彼は立ち上がりそのまま行ってしまった。



私は家に帰ってすぐに、便箋を取り出し京一に手紙を書き始めた。

冗談じゃない。

彼を好きなのは認めるが、彼を縛ろうだなんて考えていない。

でも彼はどうなんだろう。

今まで幼馴染として上手くやってきたと思っていたが、

それは私の独りよがりな認識で、

彼は本当は、耳のことで責任を感じて私に接してきたのだろうか。

あの優しさは・・・負い目があったから?

私は京一が責任を負う必要はない、私は一人でも大丈夫、という

内容の文章を書き、薄緑の封筒へと便箋を入れる。

私はその手紙を手に持って、じっと睨みつける。

渡せば、彼はもう逢ってはくれなくなるんだろうか。

仕事のない日にほぼ毎日行われる、あの窓からの逢瀬は、

なくなってしまうんだろうか。

それでも、彼には自由でいて欲しい。

決められた人生じゃなくって、自由に、幸せになって欲しい。



書いた手紙は、直接渡すにはあまりに気まずくて。

私は彼の家のポストに入れておいた。

そのままリハーサルだ何だといって京一と逢うことは無く、

ライブの日を迎えることとなってしまった。

彼の家の郵便物は溜まっていないようだから、

きっと読んでくれたと思う。

手紙を読んで、彼はどう思ったのだろうか。

ライブ会場へとの道を進みながら私は京一のことばかりを考えていた。

会場に行ってみれば、そこは着飾った女の子達でいっぱいだった。

冬にキャミソールなんて、考えられない。

みんな携帯電話をいじりながら友達と何か話をしていたり、

鏡を片手に化粧をしていたりする。

席は指定で、私は一番前の席へと足を進める。

聞くこともできないくせにこんな場所を陣取ってしまうのは、

ファンの女の子達に少し申し訳が無いような気がしたが、

まぁ、たぶんこんな事も最後になるだろうから許して欲しい。

これで、最後か・・・・。

京一達が会場に入ってくるとみんな立って向かい入れる。

いきなり演奏が始まった。

聞こえることは無いけれど、京一たちの歌っている姿。

それを見るだけでもかなり楽しめる。

サイレント映画を見ているような感じだろうか。

いつもとは違った、力強く歌っている彼。

私はそれで十分だ。

今まで一緒にいれた。

彼のことはテレビだって見ることはできるんだ。

耳のことを除いても、どれだけ救われたことだろうか。

十分だよ。



曲が終わると彼がマイクを取って挨拶をし始める。

口の形を見れば大体何を言っているのか分かるのだが、

マイクに隠れているからさっぱりだ。

それでも私は彼から目を離さない。

いつもと違い彼と目が合うことが無くっても。

そうして彼はまた歌いだした。

歌っている彼は、やっぱり誰よりも輝いていて。

やっぱり私は目を奪われる。

あぁ、私は本当に彼のことが好きだったんだな。



何曲も歌い、そろそろライブも終盤にかかった時。

今日は初めて、彼と目が合った。

彼はマイクをスタンドに置き、胸の位置でゆっくりと指で形を作った。



 『最後に歌うこの曲は、


  俺の大切な人のために作りました。


  貴方に少しでも、


  俺の声が届けば嬉しいです。


  聞いてください。


  ―ヴォイス―』



彼はいつもなら筆談で語るような長さの手話を終え、

マイクを取って私のほうを見つめる。

そして他のメンバーが腕を動かすのにあわせて歌いだした。




とたんにあふれ出す音楽。




何だよ、


これは。



私の心臓に直接伝わってくる。



私は涙が止まらなくなって顔を手で覆う。


隙間から見えたのは私を見て歌っている彼の嬉しそうな笑顔。



こんなにも強く私の中に響いてくる。



ずるい。こんなの。



ずるいよ。




京一の声。




聴こえる。



聴こえてくるよ。







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6000を踏まれたかおる様のみお持ち帰りOKです。
こんな小説で本当すみません。
色々突込みどころはあると思いますが、にこやかに許していただけると嬉しいです。
一応京一サイドも書くつもりなのでそちらは少々お待ちください。

     2005/02/11