―逃げても無駄、隠れても無駄。―



昔、田舎のおばあちゃんの家に行ったとき、

森の中の沼でであった女性にこう言われたことがある。

僕は必死になった逃げたけれども、彼女は何処までも追いかけてきた。

薄く透けた足で。



「明野、起きろって。もう六限終わったぞ?」

光だけが差し込むまぶたを開くと、そこには高校に入ってからの友人の川村が覗き込んでいた。

「・・・・おはよう。」

目をこすりながら、最初から寝るつもりだった為に外しておいた眼鏡を手探りで探し当てる。

「なんか今日お前ずっと寝てたろ。

 もうすぐ担任来るからHRぐらい起きてろよ〜。」

川村は笑いながらそう言った。

「久しぶりに・・・・。」

「ん?なんか言ったか?」

席に戻ろうとしていた川村が振り返ったので、

なんでもない、と笑顔を向けた。



あの夢を見たのは久しぶりだ。

あの女性は結局何処までも着いてきて、

村まで走って人とすれ違う頃には消えて見えなくなってしまった。

彼女の言っていた言葉は僕の今を予期したものだったのかもしれない。



僕は最近まともに授業を受けていない。

元々勉強はできるほうだったが、

高3の冬にこんな状態では教師たちがいい顔をするわけがない。

其れを分かっていても大半を寝て過ごしてしまっている。

理由はわかっている。

あの娘だ。



授業が終わって、急いで向かう場所。

其れは満開の桜の下、読書を楽しむ彼女のところ。

もう一度言う。

今は冬だ。

狂い咲きと言うのでも、あまりに不自然だろう。

他の人間には桜が咲いているは見えないようだし。

彼女とであって2ヶ月。

花は季節に従うことはなかった。

ああ、

狂っているのは僕の方か。



彼女からは、あの沼でであった女性や、

今までこの瞳に映ってきた人間でないものと同じ匂いがする。

つまり、そう言うことだ。



今日もHRが終わり、掃除当番をサボって走ってあの場所へ行く。

彼女が僕を待っているだろうから。

「ああ、和樹くん、今日は早かったわね。」

僕が息を切らしながら彼女の方を見ると、嬉しそうに微笑む姿が見えた。

「うん、今日はHRが早く終わってさ。

 優貴さんは点滴もう終わったの?」

そう、彼女は向かいにある病院の入院患者だ。

いや、入院患者だった。

彼女はいつも、『点滴を終えてから』ここに来る。

そして小説を読みながら僕を待っていてくれる。

待ったかと聞けば、今来たところと言う答えが返ってくるが、

学校を早退して此処にきたときも、彼女は小説を読みながら此処に座っていた。

僕が来ると、嬉しそうに今日の出来事や、看護婦たちの面白おかしい話を聞かせてくれる。

きっと彼女も気がついている。

自分が人間ではなくなっていることに。

そして、其れを僕が知っていることに。

彼女は何も言わない。

だから僕も何も言わない。

二時間ほど他愛もない話をして、彼女は『往診の時間』だからと言って此処を離れる。

咲き乱れる桜と残された僕は、放り出しておいた鞄を掴み、

家路へと向かう。

正直、一番辛いのは此処だ。

足取りは重く、意識は朦朧としている。

何度ぶっ倒れそうになったことだろうか、家に着くまではと、気力だけで足を進めるのだ。

彼女、いや、人間でも動物でもないものに出会ったあとは疲労が押し寄せてくる。

であって二ヶ月ちょっと。体は限界まで来ていた。



であった頃に比べるとずいぶんと彼女の影が濃くなったと思う。

僕の生気を無意識のうちにかどうかは分からないが吸い取っているのだろう。

わかっている。

いくら僕がボロボロになったって、彼女が幻以外の、「現実」になりうることはないんだって。

それでも僕は。

青い顔をして彼女のもとに通うのだ。

まるで其れが使命かのように。



「おい、明野〜。

 起きろって。」

眼を開けるとそこには担任の顔。

ああ、そういえば水曜の三限は担任の岡田の国語だったっけ。

「・・・・おはようございます。」

担任は呆れたようにため息をついた。

「お前最近寝てばっかりなんだってな。

 バイトとかしているわけじゃないんだろ。」

本を閉じて少しずれた眼鏡を直しながら言う。

「はぁ、まぁ。」

頭がぼうっとしてろくな言い訳も考え付かない。

「放課後職員室な。」



そう言われて、職員室に行ったら一時間近く説教を食らってしまった。

「明野、お前本当に顔色悪いぞ。

 ・・・・何かあったら言えよ?」

最後にそう肩を叩かれて職員室を出た。

心配を、かけさせてしまった。

元々両親を無くしてから、親権だけを遠い親戚に預け、

一人暮らしをしていた為、よく目はかけてもらっていた。

相談にのってもらったりもしてはいたが・・・。

こんなこと、誰にもいえない。



いつもより遅い時間、僕はいつもの通り枯れない桜の木へと向かった。

彼女はいつも通り桜の木の本に座っていた。

そう、座ってはいたのだが。

「和樹君、どうして・・・、どうして遅くなったの?

 いつもちゃんと来てくれるじゃない。

 どうして今日こなかったの?

 ねぇ!

 何で私のことほっておくの!!」

彼女が立ち上がって僕に詰め寄る。

「ねぇ!

 答えなさいよ!

 何でいつもそうなの?私なんてお荷物でしかないんでしょ!

 私なんか早く死ねばいいって」

「違う!!!」

違うんだ。

大声を出して彼女に伝えようとするけれど、

横の道を通る人たちが怪しがり振り向くだけで、

彼女には届かない。

「嫌!じゃぁ何で来てくれなかったの!

 ずっと、ずっと待っていたのに。」

「優貴さん、落ち着いて・・・」

彼女の顔は悲しみに歪んでいる。

いったい、誰を想っているのだろう。

僕を、

見てはくれないのだろうか。

混乱した彼女を落ち着かせようと、僕は彼女の頭に手を伸ばし、

抱きしめるような形をとろうとする。

―――バシッ!!

感じたのは頬の痛み。

「優貴、さん?」

彼女の頭に伸ばしていた手で頬に触れてみると、

確かに叩かれた感触が残っていた。

「っっあ・・・・。

 ご、ごめんなさい!

 私・・・・・・。

 こんなつもりじゃ・・・・。」

我に返ったのだろうか、彼女は途端に慌てだし、

僕の頬に触れて痛くないかと聞いてきた。



僕の頬に触れて。



「・・・痛い。」

僕が小さな声で呟くと、彼女は必死になって謝ってきた。

痛い。

頬ではなく、この胸の奥が。

今まで、彼女に触れられた事はなかった。

寂しいと話す彼女の肩を抱こうとしても、

掴むのはいつも空ばかり。

僕の手は彼女の体をすり抜けて抱きしめることも、

涙を拭いてやることもできなかった。



彼女が表した負の感情。

僕は知っていたはずだ。

彼女というものが、どうなっていくのか。

力を持った人間でないものたちが、どうなるのか。

彼女が、日に日に、

触れることができるまでに力をつけていっていること。

知っていたのに。



僕は彼女を抱きしめる。

初めて触れる、愛しい君。

嬉しくて嬉しくて、悲しくて。

僕たち、

もう、駄目だね。



「和樹君・・・・。」

「優貴さん、もう、会いにこれないよ。」

腕に力を入れて、きつく、抱きしめる。

きつく、きつく。

「もうこれ以上、君を汚したくない。」

少し、体を離して眼を合わせる。

彼女の、その濡れた瞳を愛しいと想ってしまったから。

だから。

だから。



「和樹君・・・・。

 私。知っていたの。

 私の所為で、貴方がどんなに辛い思いをしているかって。

 どんどん顔色が悪くなって、咳き込むこともあったわね。

 知っていたの・・・・。

 私、綺麗じゃないのよ。

 汚れきっている。だから・・・・。」



側にいて、と小さな声が聞こえた。

彼女は震えながら僕の手にすがりつく。

「ごめん。」

ごめん。

君を。

愛しているんだ。

だから、その願い。

聞けたことがどんなに嬉しくても、叶えるわけにはいかないんだ。



僕はその手を振り払い、走り出した。

彼女の声が聞こえようとも振り返ることはせずに。

此処で引き返して抱きしめて、

嘘だよ、愛してるよ、と言えたらどんなに・・・。



それでも、僕はこぼれる涙をぬぐいもせずに、

ただ、走り続けた。



「明野、お前一時に比べて大分と顔色良くなったな。」

一限の後の放課、昨日から読み始めた小説を開いていると、

川村が僕の前の椅子に腰掛け、話し掛けてきた。

「そうか?まぁ、授業中は寝なくなったけどな。」

あれから、3ヶ月が過ぎていた。

僕は徐々に体力を取り戻し、彼女のことは思い出へと変わっていった。

「前は笑っていても、何だか此処にあらずって感じだったけど、

 しっかりしてきたし。よかったよ。

 皆心配していたんだぞ?」

ははっと笑いながら其れに答える。

もうすっかり暖かくなってきた。

まだ桜の季節ではないけれども、

桜が咲く頃にはこの小さなわだかまりも消えてなくなってしまうだろう。

そう思うと、少し、寂しいけれども。

「そう言えばさ、話変わるけれど。

 お前西川公園右に曲がったところの桜の木。

 よく見に行っていただろう。冬にもかかわらず。」

突然振られた話題に、驚いて目を見開く。

「あの木さ、明日切られるみたいだぜ?

 今年はもうあの桜の花見れないな。

 なんかあそこにビルが建つみたいで・・・・・

 っておい!何処行くんだよ!!」

川村が椅子から立ち上がる音が聞こえる。

どこって?

そんなの決まってるだろ?

仕方がないじゃないか。

足が勝手に動くんだから。

僕は全力で校舎を走り抜け、靴も履き替えずそのまま外へ出る。

途中で知り合いや担任から声をかけられたが、眼も合わせずそのまま走り続けた。



いつもの桜が見えたとき、あの女の声が聞こえた。

逃げても無駄、隠れても無駄。





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     2005/11/24