―諦めろ、恋人。―
「いえ、ここは諦められません。」
私は、いつの間にか恋人となってしまった小説家、水谷純一に返す。
彼は私が担当する小説家で、高校時代の同級生、
今は恋人という関係にある。
「哉ちゃん、諦めは肝心だよ。
大人な女への第一歩だ。」
そう笑いながら、こちらを向く。
どうして、こうなってしまったんだろうか。
時間は十分にあったはずだ。
「先生、この原稿、今度の創刊号に出すやつなんです。
めちゃくちゃ金かかってるんです。
編集部のほうも、かなり力入れてるのに・・・・。
諦めるなんて言葉は存在しませんから。」
パソコンに向かってノロノロとマウスを動かす彼に話しかける。
マウスじゃなくて、キーボードを動かしてください。
と言う言葉を飲み込んで。
外では蝉の声が響いている。
ガンガンに入ったクーラーを止め、
窓を開けると、生ぬるい風が入ってきた。
「クーラー、依存すると身体壊しますよ・・・。」
そう言うと、彼は立ち上がり、窓を閉め、
私からクーラーのリモコンを奪いスイッチをつけた。
そうですか、そんな気遣いはいらないっていうことですね・・・。
「哉ちゃん、あのさ。
編集部からご接待のお誘いが着たんだよね。」
接待・・・?
「っああ、あれですね。
増刊号の打ち上げもかねて温泉旅館に〜、というのですよね。」
先生がパソコンから目を話し、嬉しそうにこちらを向く。
「そう、一緒に行ってくれる?」
・・・・。
「私が、ですか?」
だってー、っと彼が続ける。
「俺への接待ならさ。哉ちゃんがいるのは当たり前だよね。」
そう、にっこりと笑った。
ああ、原稿が進まなかったのはこの所為か・・・・。
「原稿、書いてください。
・・・・・行きますから。」
他にも、名だたる人気作家さんたちを相手にしてきた編集さんや、
少なくとも彼にとっては大先輩の作家さんも2,3人は来るはずだ。
経験値の少ない彼にとっては、コネクション、
将来に繋がる有益な交流を持つチャンスでもあるわけで。
パソコンに向かって、鼻歌を歌いながら
すごいスピードでキーボードを打つ彼を見て、大きな不安が胸をよぎった。
正直のところ、彼とは恋愛関係になってからも、
付き合う前と特に変わった事はない。
たまに原稿中の彼が、「充電」と言い後ろから抱き着いてくることもあるが、
その程度だ。
彼に抱かれることはもちろん、キスさえしていない。
それでも、彼といるときの私は、普段と比べ物にならないほど穏やかで。
まぁ、時々ドキドキすることもあるけれど。
私は、この状態を気に入ってしまっている。
彼が求めたら、応えてあげたい。と言う気持ちはあるが、
あわよくばこのままの関係で当分ずるずるとやっていきたい。
そう思ってしまう。
それに、少し怖い気もする。
キスもセックスも。初めてというわけではない。
でも。
きっと彼に抱かれたら、彼から離れなくなってしまう。
彼はいつも余裕の表情で私に接してくる。
私は、今でもあまり余裕がなくって・・・・。
あの指先で触れられたら、私はいったいどうなってしまうのだろう。
新幹線の中、私は彼の隣に座って、ため息をついた。
「先生。あっちに混ざってお話とかしなくていいんですか?」
私がちらりと目をやったほうには、
小説家の大御所たち。
良くあんな人たちがこんなちっぽけな会社の、
接待旅行なんかについてきたよ、と思う。
そういえば前、うちの編集長の父親が文豪たちと仲がよく、
編集長は小さいころから可愛がられていた、という噂が流れたっけ。
どんな父親なんだろうか・・・。
「いいよ、竹永先生とは仲がいいし。
他の先生にも紹介してもらったことがあるからさ。
それに、後で絶対酒の相手しなきゃいけないだろうし。」
そういって、彼は笑った。
そんな笑顔にドキドキしてしまう私は、かなりの重症だろう。
「竹永先生とお知り合いなんですか?」
そう私は彼のほうを見て言った。
「ああ、言ってなかったっけ。
大学のとき家飛び出してさ。
学校行きながら竹永先生のところでお世話になってた。
押しかけ弟子っていうか・・・・。
お世話させてもらったり、小説のこと教えてもらったりさ。
恩人って言うか・・・今でも結構会うよ。」
知らなかった。
何度か、先輩に引っ付いて竹永先生の原稿をとりに行ったことはあるが、
水谷先生を見かけはしなかったし。
「じゃぁ、今日は接待されるよりもする側かもしれませんね。」
そういって、笑った。
温泉宿に着くと、女性の先生はいないため、
私ともう一人の女の先輩は、接待と言うものもほとんどせずに、
のんびりと温泉につかったりしてすごした。
部屋は先輩と二人部屋でいいと言ったが、なぜかせっかくだからと、
一人部屋になった。
食事を大広間でして、お酒が入って・・・・。
「哉ちゃん、だよね?」
そういわれて、すりむいたらそこには竹内先生が私の横に座っていた。
「あ、こんばんは。お久しぶりです。
私、何度か先輩に連れられて、先生の原稿を取りにいったことが・・・。」
「うん、知ってる。」
すごい、ことだと思う。
あの大先生が、私の名前を呼んでいるというのは。
・・・・編集者になってよかったかも。
「純からね。よく聞いていたよ。
あ、私と純との関係は知っているかね?」
はい、と頷く。
「押しかけたって・・・・。」
そう言うと、先生はくすくすと笑った。
優しそうな笑顔で。
こんな笑顔の人がどうやったら、あんな深い世界が書けるのだろうか。
「初めて哉ちゃんが来たときね。
純のやつ、陰で見つからないように見てて。
君が帰ったとたんすごい剣幕で聞いてきたよ。
何で君がここにいるんだ、どこの出版社だ、
君の連絡先はどこだって・・・。
そのとき純はまだ大学の・・・3年かな?
バイトと、うちでお手伝いをして稼いだ金で大学にいってさ。
余った時間で小説を書いてたなぁ、
へったくそな文章でさ。その時は純だ小説家になれるなんて、
思っても見なかったけどなぁ。
いまや小説家として接待される側にいるんだもんな。」
先生はそういって、あははは、っと、小さく笑った。
水谷先生が大学3年。
私は短大を出て、就職してすぐのときだ。
5年も、前の話なのだろうか。
少し、顔が赤くなったのが分かる。
「竹永先生!!
何話してんですか。こいつに変なこと吹き込まないでくださいよ。」
そういって、水谷先生が、私の後ろから抱き着いてきた。
え、ちょっと、そんな・・・・。大先生の前で・・・・。
「おい、純、離してやれ。
哉ちゃん真っ赤になってるぞ。」
竹永先生はそう笑った。
水谷先生の息がかかる。
うわ、お酒臭い・・・・。
「竹永先生、あっちで飲みましょう。」
そういって、彼は私から腕を放した。
竹永先生も、席を立って彼に続いた。
「じゃぁ、哉ちゃん、また純の話で盛り上がろうね。」
そういって、嬉しそうに手を振ってくる。
「あ、ハイ。また・・・。」
私は手を振って見送り、その場でため息を吐いた。
時計を見ると10時になっていた。
7時から宴会を始めたら、もう、かなりの人がつぶれ掛けている。
「市ノ瀬、今編集長が女の子はもう休んでいいってさ。
小川先輩も休みにいった。
温泉でも入ってゆっくりしろよ。」
声をしたほうを見ると、そこには同期の藤木くんがいた。
彼も接待要員だ。
もともとそんなに大きな会社ではないので、
うちの部署の同期は、彼ともう一人の女の子だけなのだけれども。
「あ、うん。分かった。
藤木くんたちは?」
そう聞くと彼はため息をついて笑った。
「まだ、無理そう。
まぁ、僕の分までお休みになってくださいな。」
そういって笑った。
お言葉に甘えて、今、私は満天の星空を見ながら心地よいお湯につかっている。
星座なんて分からないけれども。
こんな空を見て、感動しないわけがない。
ああ、彼と二人で見るのも悪くないかもしれない。
後で一緒に見れたらいいけれど。
ああ、きっと竹永先生につぶされて、それどころじゃないだろうなぁ。
今日は息の新幹線ぐらいでしかゆっくりと話せなかった。
彼が他の先生方のところへ行かず、
私の隣にいてくれたのは、気を使ってくれたのだろうか。
あまり恋人らしくも出来ない、それでも側にいたいと願う私に。
「何を、やっているんですか。」
部屋に戻ろうとしたら、ドアの前にしゃがんでいる男が一人。
「あ、遅いよ。哉ちゃん。」
「先生・・・・。」
そこにいたのは顔を真っ赤にした彼だった。
「竹永先生が離してくれなくってさ。
もっと早くに着たかったんだけど・・・。
ねぇ、入れてよ。
こんなところで立ち話とかやだし。」
私はため息をついてドアの鍵をガチャリと開けた。
荷物を置いて、敷かれた布団の所為で、
部屋の隅へと追いやられた机へと彼を促し、
備え付けのポットでお茶を入れる。
「ずいぶん飲んだんですね。」
「あ、うん。足元ふらふらしてた。」
湯飲みにお茶を注ぎながら彼に目をやる。
ふと、真剣な目。
「なぁ、哉の同期って何人ぐらいいるんだ?」
いきなり、呼び捨てで呼ばれて驚いて目を開く。
「あ、二人です。
井上さんって言う女の人と、藤木くん・・・。
今日も着てる男の人です。
どうかしたんですか?」
「いや・・・、何となくさ。
ほら、小説家って同期とかそういうのって無縁じゃん。
だから少しうらやましいかなって。」
そういって差し出されたお茶を手に取りながら笑う。
「ああ、そうですよね。
結構楽しいですよ。特に藤木くんとは仲がよくって、
彼、すんごい愛妻家なんですよ。
いつもお弁当とか奥さんの手作りですし。」
「え?結婚してるの?」
「はい。学生結婚だったらしいですよ。
大学の3年のときに結婚したって言ってました。
会社でものろけてばかりですよ。」
そういって私は少し笑って見せた。
「そう、なんだ・・・。」
「ええ、同期と言っても、私は短大出で、彼は四大だから、
歳は二つ上なんですけどね。」
「そっか・・・。」
「どうしたんですか?」
彼のほうを見ると、うつむいて、額に手を乗せている。
私は彼の側によって、顔を覗き込む。
「先生?少し赤いですよ?
大丈夫ですか?」
相当飲んだのだろうか。
少し、心配になる。
「ああ、大丈夫。
ちょっと、恥ずかしい勘違いを・・・・。」
「え?」
「君と、藤木くんが仲がいいのを見てさ、
嫉妬、してしまいました・・・・。」
彼の指先がそっと私の肩に触れる。
どうしよう。
顔が。
自分の顔が赤くなってゆくのが分かる。
いつも抱きつかれたりしているはずなのに。
「そう、ですか・・・。」
彼から少し離れて、両手で顔を覆う。
どうしよう。
「哉。
こっち、向いてくれないの?」
うつむいた顔をあげられないでいると、
そっと、彼の手が私の手の上から触れてくる。
どうしよう。
聴こえてしまう。
心臓の音が・・・。
「哉・・・。」
彼の声に、少しだけ、顔を上げると。
真剣な瞳。
ああ、もう、戻れないんだろうな。
いつもは優しい笑顔の彼が、
いつもとは違う顔で近づいてくる。
彼の眼差しとその指と、そして優しい唇に酔いながら、
私は目を閉じた。
其れは、子供のキスじゃなくて、
甘い、熟れた果実のようなキス。
息遣いを荒くしながら、音を立てて唇を離すと、
笑った、彼の顔。
でも、あの眼差しはそのまま。
その瞳に見ほれていると、腕をつかまれ、
身体ごと彼の腕の中へとしまわれる。
「先生・・・・。」
彼の唇が首筋へと降りる。
無駄な抵抗だとは分かっている。
彼の指はもう私の浴衣にかかっている。
でも。
「先生。
困ります・・・。
他の先生方も向こうの部屋にいらっしゃるのに・・・。」
彼は、私の声に、指を止めてくれた。
「今日は、接待旅行のはずなのに。
接待、してばっかりでされてないんだよね。
そこらへんは、君がしてくれるんだと思ってたんだけど・・・。」
「でも・・・。」
「隣の部屋は僕の部屋だし。
反対側は庭になってる。
俺たちの関係は宴会場にいたみんなが知ってるから、
邪魔する奴なんて来ないよ?」
「え・・・。その・・・。
話したんですか?」
そう聞いたら彼は嬉しそうに笑う。
「うん、言いふらしちゃった。
ちょっと自慢も兼ねて。」
本当に、嬉しそうな顔で。
それでも、と抵抗する私を無理やり布団へと運ぶとき、
彼が言った一言に私は少し笑ってしまった。
諦めろ、恋人。

台詞で100のお題 top
2006/06/30